浄圓寺について

(略縁起.文政11年 江戸時代の書記より)
開基性信上人は(属性 常陸の国鹿島神司の長男悪五郎)親鸞聖人について、京都に行き越後への流刑の時も付き従う。
親鸞聖人流罪赦免後、越後から常陸の国に同道する途中、下野の国 室の八島花見ケ丘(現栃木県下野市)に至り禅室を構え八藤山花見院法得寺と号した。

文応元(1260)年法得寺を二世釋顕能に附与し、同国瀬陸の地(現栃木県野木町?)に移る。
また、明応6(1497)年 7世釋西順の代に下総の国 古河紺屋町に寺地を変える。7世西順の父 俗佐々木氏は古河公方足利成氏の臣下であり、戦場にて討死にする。
その経緯をもって寺の山号侍休山とし寺号を院号に改め侍休山法得院浄圓寺と号するようになった。

9世釋顕悦の時に当時の古河城主松平氏の移封に伴い三年間常陸の国、笠間の地に随行する。
その間に古河紺屋町の寺地は失われるが、藩主が小笠原氏より現在の古河鍛冶町に新たに寺地を下賜される。

江戸期文化(1817)年には、本堂が火災に見舞われ全焼する。
本堂は20年程を経て、天保年間に再建されたようである。
その後、本堂も老朽化し昭和4年建て替えられる。
また、現在29世憲良のもと2018年より本堂建設委員会が立ち上げられ門徒様方々に支えられ、2021年7月に新本堂竣工となった。